ちいさな世界 第3話
緑の電話 〜 母
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母は電話が大好きだった。
僕はその受話器のコードを首に巻きつけ
まだ声変わりしてなかった声で「さよなら」と、言った。
これは僕が死にかけた3度目の話。
僕はこの他に2度、死にかけたことがある。
どちらが先かは覚えていないし、年齢もわからない。
幼稚園時代、もしくはそれよりも前だと思う。
まず1つは走行中の車のドアが空き、ガードレールに強打したとき。
このときの記憶はほとんどないが、病院の待合室にいたことはぼんやりと覚えている。
そして大きな瘤程度で済んだらしい。
僕の頭の形が少しいびつなのは、このことが原因なのだろうか。
もう1つは泳ぎを習っていない頃、
同年代の子どもに背中を押され、池に落とされたこと。
刑務所官舎のすぐ横にあった一軒家には「鯉の池」があった。
そこで僕は「肌が真っ白になる程」溺れていたらしい。
このとき目の前に水面と地上の境目があって、
それがぐらぐらと揺れていた。
池の水は深い緑色。
鯉が左側にいたようで
綺麗な赤いぼんやりとしたものが動いていた。
小学校6年までプールの授業は休み続けた。
その理由を明かすことはしなかったと思う。
とにかく水が怖かったのだ。
どんな心境が働いたのかわからないが、
小学校6年のとき。「これではいけない」と
私は銭湯の片隅で「水の中で目を開ける」練習を始めた。
それから水泳の授業を休まなくはなった。
潜るのは得意だったが、泳ぎは全く上達しなかった。
話を「3度目」に戻そう。
「お前なんか生まれてこなければ良かったのに」
母から何度、その罵声を浴びたことだろう。
延々と大声で怒鳴り続けられ
耳はキンキンと痛み、頭が重い。
きっかけは毎回わからない。
例えばゴミ屋敷の部屋のどこかに家の鍵をなくした。
それ以外でなんで怒られてただろう。覚えていない。
ずしっ。
そんな痛みが頭の中を覆い尽くす。
謝っても、謝っても止まらない怒鳴り声。
目の前にいるのは、僕を産んでくれた母で、
その母が怒っている。
何をどう謝れば赦してくれるんだろう。
そもそも赦す気などないのではないか。
ただただパニックの中。助けてくれるものは現れない。
母の気が済むまで、その時間は続いた。
その日も同じような状況だったと思う。
たしか日は明るかったと思う。
母は電話が大好きだった。
歩いて会える団地の隣人に長電話をする。
それが母の趣味だった。
緑のダイヤル電話は、いつも母の匂いがした。
さっとそのカールしている丈夫そうなコードを首に巻きつけ、
「さよなら」と言いながら、思いっきり両手で引っ張った。
(その際に受話器が外れて「チーン」と軽快な音が鳴り、
そのあとに電話機が床に落ちる「ゴト」と、重い音が続いた)
そのときは小学校何年生だったろうか。
服を汚すと怒られるし、運動は苦手だった僕の、その未熟な腕力。
それでも一瞬で呼吸が苦しくなった。
視界が真っ黒になりそうなとき、母はすぐに止めに来た。泣いていた。
母は僕を抱きかかえ、泣きながら、
何度も「ごめん。けんいち。」と言っていた。
そのときの僕は無言だったが、
そのときに何を考えていたのかは今でも覚えているよ。
「何がごめんなの?」
母は何に対して謝っていたのか。
今なら聞いて確認できるかもしれない。
しかし僕はそれを確認することはしないだろう。